Episode 1
不純?素朴で素直?
幼少の頃、父は近所に住む辛島澄風という琴古流の先生に尺八を習っていましたが、先生のご都合で国東から大分市内に引っ越されることになりました。その後、なぜか我が家の二階がお稽古場として使用されることになったようです。月に1〜2回お稽古が開かれ、先生とお弟子さん達が我が家に集まることとなります。その際、お迎え(おもてなし)するため、その都度お茶とお茶菓子が用意されました。
当時小学5年の遊び盛りの私にとっては「音が出るか出ないか?」という尺八教室には、全く関心が無かったわけですが、お稽古がある日には遊びにも行かずに、決まってその二階の部屋に居座っていました。遊び盛りでもあると同時に食べざかりでもあったわけです。その時に用意された色々な「お茶菓子」は、その日にしか味わえない格別な関心と興味をそそるものだったわけです。
現在ならコンビニでお菓子を買って、TVゲームやスマホで遊んでいたのかもしれませんが、半世紀も前のお話ですし、田舎暮らしということもあって本当に何もなかったわけです。ですからお稽古が終わり残ったお菓子を頂戴するために、お稽古に来られる生徒さん(私の親世代の年配の方達)の演奏を、何時間も聞いていた事になります。
また普段は虫歯になるからと…お菓子を食べることも少なかったわけですが、不思議なことにその日は特別?というか、両親とも口うるさく言うこともなく、残ったお菓子を好きに食べることが出来ました。このことは恐らく「良い思い出?」として、「尺八=好き」と自分の中では自動変換され上書き保存されたものだと思っています。
Episode 2
刀剣?房紐の巾着袋
ある日のこと、お稽古の合間に辛島先生が私に、尺八吹いてみないか?と尺八をおもむろに真ん中で引き抜いて「尺八は簡単に音が出ないから、無理かな?」と言いながら尺八のあて方や吹き方などを一通り教えると、それを私に持たせました。
実のところ、家でかくれんぼをしていて父のタンスの中に隠れようとしたとき、何やら刀剣らしきモノが入った房のついた紐できつく縛った巾着袋を偶然見つけ「これ何?開けて!開けて!」と興奮しながら、父にせがんだことがありました。房紐を解いて袋の中から出てきたそのモノとは?それは私が「尺八」を初めて目にした瞬間でした。父はおもむろにとりだした尺八を構え「ぶぉ〜」と吹いてみせてくれました。
「吹いてみるか?」と父から渡されましたが「な〜んだ、刀じゃないのか〜」と落胆に近いがっかりした気持ちで、急に興味が薄れていくのを感じながら尺八に息を入れたこととなります。皮肉?なことに、ワクワクはしぼんでいましたが、かわりに膨らみのある音が出たことで、父をとても驚かせたみたいです。
すでにそんなことがあったとは知らない先生でしたから、いとも簡単に尺八の音を出す私に…「すごい!天才かもしれない!!」と先生を驚かせ、同時にとても褒めていただいたことを覚えています。
普段なんの取り柄もなく褒められることに慣れていない私は、子供心というか素直に嬉しくなり、同時に得意に感じた瞬間だったのだと思います。そんな事もあって「尺八=好き」と、さらに刷り込まれていったのかもしれません。
確かに尺八のお稽古の日は(何よりお菓子の魅力もあって…)楽しそうにしていましたし、褒めて頂ける貴重な一日として嬉しかったのは事実でした。ですが、普通に音が出せる小学生に対して、思い入れや思い込みや思い違いの入り交ざった期待を…先生にさせたことになります。
そんな流れが生じて母の期待を増幅させ…当時でもかなり高額であったのべ管(継ぎ目のない竹でできた)七節の尺八を、母の「へそくり」から購入してもらったことになります。当然その後は、先生に尺八の手ほどきを受けることになるのですが、練習とか努力とか地道なことが嫌いというか出来ない子供でしたし、何事も続かぬ三日坊主でした。
その後は大枚をはたいた母から「練習しなさい」と言われなければ、自分から尺八に触れることはありませんでしたので…期待はずれの大散財をさせてしまった母に対して、罪悪感に似た後ろめたさと申し訳なさを、子供ながら感じていました。でも…そもそも興味は「残ったお茶菓子」にしかなかった「痛くて残念な子供」だったという事になります。
Episode 3
鹿の遠音
尺八は琴古流と都山流の二大流派があるということはご存知だと思いますが、辛島先生は琴古流の美風会に所属されており、その理事と大分県支部の支部長という立場で尺八を指導されていました。しかし基本的には流派を超え当時にしては稀有な存在の指導者で、熱心にまた精力的に活動されていたと記憶しています。毎年定期演奏会を企画・主催していましたし、時には東京などから高名な演奏家をゲストとしてお招きするなど邦楽演奏会をより魅力的なものにされていました。そのおかげでプロの本物の音をライブで直接聞くことが出来ました。本物というかプロの音は心に響くものがありました。
例えば宮田耕八朗氏の7孔尺八による演奏を聞けば、フルートのように繊細で軽やかに演奏する姿を見てその影響を受け、その後自分の尺八も7孔に改作して頂いたりしていました。
また別の演奏会では(その日は私自身出演者でもあったこともありますが...)楽屋にお邪魔しサインを頂いた青木静夫(青木鈴慕2世、人間国宝)氏との集合写真は、そのサインとともに今でも大事な「お宝」になっています。
中でも衝撃的な演奏会がありました…客席から吹きながら入場し舞台に登壇する「鹿の遠音」は圧巻というべきものでした。通路側にいたこともあり、ほぼ真横で聞いたプロの迫力のある音…日頃耳にしていた尺八の音とは全く次元の違う異世界の音…横山勝也氏の竹から生じる渾身の音「魂の響き」がそこにはありました。
Episode 4
名刺の裏書き
20代の半ば…夏に姉と二人で辛島先生のところに伺った事があります。姉は高校卒業後、市谷にあった正派邦楽院に通い、予科から本科へと進み、箏・三絃の師範を取得していました。随分昔の話なので、記憶も曖昧で定かではありませんが、たぶん私は車の運転手として姉に同行したのだと思います。というのも高校時代は、ほぼ全くと言っていいほど尺八に触れてもいませんでした。大学受験のためというのがその理由となっていましたが、内面的にはプロとの違いに圧倒されたことが大きな理由ということになっていました。感動して前向きに挑戦すればいいことですが、言い訳ばかりしていたことになります。情けないことに本物の音を聞いて萎縮してしまったわけです。
そのため辛島先生とは長い間お会いすることも無く、すっかりご無沙汰しておりました。日頃の非礼をお詫びする目的もあり、また姉と同行することで少し敷居が低くなるのを感じていました。姉は正派を卒業した後は、大分に戻ることになっていましたので、また辛島先生にはお世話になることも多くなるために挨拶に伺ったのだと思われました。またその際に、姉と入れ替わるように今度は私が就職で上京するとの報告をしたことになります。すると先生から「時間が出来たらまた尺八をやればいい」とやんわりと進められ、もし東京でまた尺八を習いたいと思うのであれば、この先生のところに行きなさいと、帰り際にその先生の住所と連絡先のある名刺を一枚頂戴しました。
そしてその頂戴した名刺には、このような裏書きがされていました。「横山勝也先生へ…私の愛弟子です。ご指導を賜りますよう、どうぞ宜しくお願い申し上げます。」
Episode 5
無い・無い…
就職のため上京した私は、東京での独身生活が始まりました。社会人としてまた会社の社員として覚えなければいけないことだらけでした。仕事に追われふと気がつくと一日が終わる。そんな毎日の繰り返しだったような気がします。無味乾燥した日々を送ることで、いつしか名刺の裏書きの事も忘れ、ココロが埋没していくようなそんな生活にも慣れていったのだと思います。
アパート暮らしでしたから、楽器演奏など大きな音は出せないため尺八は実家に残したままでした。金銭的にもギリギリだったのは事実で「そんな高名な先生の月謝を、おまえなんかの薄給で払えるわけない」と父に言われ、何も言い返せなかったことを思い出します。自分の不甲斐なさは、今思えばお金がないことよりも、言い訳ばかりをして行動しなかったことだと反省しています。薄給を理由に、横山先生を実際に訪問して確認をすることもしていません。本質的ではない他の理由をつけて納得したかのように諦めていました。名刺を持って入門?…無い。趣味に高額な月謝?…お金が無い・続か無い。「無い・無い…」考えれば考えるほど自分には何も無いと無力感に押しつぶされていくだけでした。今になって思うことは…本当に無かったのは自分の強い意志(気持ち)・行動だったことになります。
Episode 6
本物に触れる…
そのサラリーマン時代…会社社長の義理の妹さんから、ご近所に住む尺八の先生の演奏会があるとのことでチケットを頂きました。尺八の経験があったからそのようなご配慮を頂いたわけですが、すでに私の中には尺八に対する興味や関心という火は消えていました。正直ほぼ毎日のように残業することに慣れ、それが慢性的な生活を繰り返していましたので、行けるかどうかもわかりません。ただ頂戴したとはいえ一週間分のお昼代に相当するチケットですから、大事に財布の中にしまい込んでいました。
不思議な力が働いていたとしか思えないくらい、その日に限って何故か仕事を早く終えることが出来て「じゃあたまには飲みにでも行こうか〜」と財布を確認すると、頂戴したチケットが目にとまり「あれっ、これっていつだったっけ?」と確認すると、すぐに会社を出れば開演前には会場に入る事が出来る…そんなタイミングでした。今思えば、細〜い、細〜い糸でつながっていたと思うしかありません。
日本人であるにも関わらず、邦楽の演奏を聞く機会は少なくなっていると思いますし、本物の演奏を聞くことはもっともっと少なくなっていることになります。
プロの演奏というか、本物に触れるとラジオやテレビやCDなどでは味わえない…ライブの凄さもあって、自分の中にも何か熱を感じるような体験ができると思います。どんなジャンルであれ本物の凄さは、心を鷲掴みにされるのかもしれません。
CDも販売されていたので、帰り際に購入するとサインを頂いた。「音は人…人は縁… 古屋輝夫」
仕事が生きがいのような人も多いけれど、もっともっとゆっくり…スローライフを送ることも大切ですよ…と、あたたかい笑顔で声をかけて頂いた。古屋先生の言葉と優しい暖かな笑顔が、なぜか染み込んで行くように心に広がっていくのを感じていました。
Episode 7
人は縁(えにし)
その尺八リサイタルを聞いた翌日から、またいつもどおりの生活…仕事に埋没するようなあのいつもの日常が待っていたわけです。残念ながら、当時はまだ今日のようにスマホやパソコンでホームページ等から情報を得られるような時代ではありませんでしたが、まさにそのような時代の幕開けを意識するようなタイミングでした。1995年に、マイクロソフトのwindows95が発売され、8MBのメモリを増設して16MBにした(バカ高い当時50万近くした)ノートパソコンをボーナス払いで購入し、エクセルやワードの参考書を独学しながら、そのような教室が出来た時にはいち早く通い始めました。また会社のOA化促進の流れに寄与できるようにと、自分の通常業務の他に時間を費やす日々となっていきました。
幼少期より「はやく!! 起きなさい。はやく!! 食事をしなさい。はやく!! 学校に行きなさい。はやく!! 勉強しなさい。はやく!! お風呂に入りなさい。はやく!! 寝なさい…」一日中と言っていいほど、しかも毎日がまさに「はやく!! はやく!! はやく!! …」の繰り返しだったような気がします。先頭を走らなければならないような使命感を持つように育てられていたような気がします。だからなのでしょうか、忙殺され消耗する毎日を過ごすことに嫌悪しながらも、同じ生活の繰り返しから結局は抜け出せずにいたのだと思います。どこか自分の中では離脱は落ちこぼれや敗北を意味していたのだと思います。
ある休みの日に、リサイタルで購入したCDをBGMのように流しながら洗濯や掃除を終え、遅い朝食のあとCDのリーフレットを眺めていました。「えっ!! 」その中にある古屋輝夫氏のプロフィールを見てとても驚き唖然としました。偶然!というか奇跡に近い!! なんと古屋輝夫氏はあの横山勝也氏に師事…つまり横山勝也先生のお弟子さんということが判明!! したのです。「音は人…人は縁…」世間は広いようで狭いとも言えますが、サインを頂戴したその言葉通りのことが実際に現実となっていたことになります。まさに鳥肌がたつような畏怖の念に近いものを感じていました。ただただ目に見えない「縁(えにし)」を、「ゾクゾクっ」としながら、不思議な…しかし確実なものとして認識するようになっていました。
Episode 8
迷路
あの頃のことを正直に言えば、何に対してなのかもわからないような、そんないらだちや怒りに近い感情…。辛さや重さを感じ負の世界が拡がって押しつぶされていく…そんな閉塞感に満たされていました。
自分探し?自己否定?現状逃避?…明確な答えはなかったけれど、とにかくストレスを溜め込んで暴発寸前だったのだと思います。ですから、何でもいいから、ちょっと前向きになれるモノに飢えて求めていた気がします。生活に追われる毎日に安寧と「何か」抜け落ちて足りないワンピースを探していたのかもしれません。しかし明確な答えや方向性を得ることはなく、自分の居場所を、今ある現実(仕事)からどこか他の場所(趣味)に置くことで、精神的に少し楽になっていったのだと思います。
別に何でも良かったといえば良かった気がします。学生時代にはバンドでヴォーカルをやっていたこともあって、親父バンドは一番イメージしやすかったと思います。その他ならギターアンサンブルとかジャズギターも魅力的でした。ギターはそれなりに弾けたし、学生時代にバイトして購入したオベーションとクラシックギターを持っていたので、すぐにでも始められる初期費用的なメリットも有りました…事実JAZZギター教室に通ったこともあったが、三ヶ月もせず辞めていました。なぜ辞めたのか?何か足りない…ワクワク?ドキドキ?が無くなっていくのを感じて、楽しくなかったというかココロが踊らなかった。踊るといえばタップダンスも…当時見た映画座頭市の下駄タップや更に昔見た映画TAPはどちらも衝撃的だったし、運動不足解消にもなるから十分挑戦する意味があった…でも生来怠け者で三日坊主である。
「あれこれ理由をつけては結果何もしない」…いやいや、そんな自分が嫌いで変わりたいとスタートした自分探しのはずが、またいつもの迷路に入り込もうとしていました。そんな自分との決別のためにも「何か」を始める必要があったはずなのに…
そんな中でひとつ心に残るもの…いや心に残るというか、喉に刺さった魚の小骨!?ぐる〜と一周して、ふと気がつくと振り出しに戻っていたことになります。はじめて古屋輝夫氏と出会ってから、すでに10年が過ぎていました。
Episode 9
日々是好日
2004年の暮れ…ドキドキしながら、古屋輝夫先生に初めてメールしたことを思い出します。すでにネットで調べて、メールを出そうとしては辞め、また書いては出せずにいました。怠け者で三日坊主の負い目もあって、始めたのはいいけれど続かないですぐに辞めて迷惑になるのではないか?などと、なかなか一歩前に進む勇気がなかったわけです。
そもそもメールでは体験入門のお願いをしたのですが、タイミング良く「12月に葛西源心庵にて『冬の勉強会』があるので、もし都合が良ければ見学にいらっしゃい」と、優しい語り口調のメールでお誘いいただきました。「アンズルヨリ、ウムガヤスシ!」とはこのことで、実は遠足に行く前の童心を思い出させるかのように、その日が来るのを待ち遠しく感じていました。
そしてまさにその日が始まりだったのだと思います。入り口でもぞもぞしていたのが嘘のように、次々に…ぽんぽんぽんと前に動き出していました。齢(よわい)45の暮れを節目にして、古屋輝夫先生から尺八の「いろは…」を教えてもらうべく、同氏が主宰する東京竹心会に入門することになりました。
以来、尺八の古典本曲をはじめとして、古典三曲や地唄の他にも近代および現代邦楽などの多方面に渡る楽曲を、基礎からご指導頂くことになります。まだまだ始まったばかりですが、何よりも古屋先生から生まれ出る音を通して、尺八学(尺八の基礎にはじまり竹韻・竹の響きと「旋律(うた)」の世界)に留まること無く、「日々是好日」人生そのものを学び直しているのだと感じはじめています。
Episode 10
師とその師
師である古屋輝夫氏は、竹心会や国際尺八研修館を創設・開設した横山勝也師の右腕であり継承者の一人という存在ですが、まさに第一人者とも言える人で、研修館で使用する尺八本曲の楽譜は、横山勝也氏が吹奏する傍らで、古屋輝夫氏が何度も聞き、それを一曲一曲譜面に書き起こしたものだという。その譜面作成の際のお二人のエピソードを残しておきます。
古「先生、今のところをもう一度お願いします。」
横「わかった…」と吹いて下さるが上手く聞き取れない。
古「あっ…先生、もう少し前からお願いします。
横「これでいいかい?」
古「すみません…もう一度お願いします。」
横「どう?これでいいかい?」
古「何度もすみません…もう一度…お願いします。」
横「どうだ?こんどはできただろう?」
古「ほんとに何度も…何度も…すみません…もう一度…」
横「。。。。。」
古「あの〜」
横「まず君がちゃんとおぼえればいいことだね!」
日頃の自分の不勉強を反省する時間でもあったのだという…その際のお二人のやり取りを直接知ることは出来ませんが(内容も一言一句の間違いないとは言いません)ただ概ねこのような内容であったらしく「何度も、何度も、横山先生に吹かせて申し訳なかった」と、未だもって申し訳無さそうに話される古屋先生のお姿に、なぜか私は少し嫉妬するような気持ちで聞きながら…偉大なお二人の深い師弟愛を垣間見た気が致しました。
Episode 11
師のおしえ
お稽古は一対一で行われ尺八古典本曲を中心に古屋先生からご指導を頂くのですが…東京竹心会に入門してしばらくたった頃でした。
お稽古が終わった後に…私の中にまだまだグラグラと揺らいでいる気持ちがあるのを諭すかのように、噛み砕いて古屋先生からお話いただいた事がありましたが、
それをまとめ座右の銘にして残しました。他責にして逃げてばかり、言い訳ばかり…それは今も私の中の道標となっています。
「君の心が決めたもの」
高さを極めんとすれば、その基礎にあり
基礎の反復練習こそ、ありのままの君を創る
その頂きは君にしか登れず、眺望は君だけのもの
ただその眺めの良し悪しは、誰あらん君の心が決めたもの